木次さくら物語

木次さくら物語

 

島根県雲南市木次町斐伊川堤防桜並木は平成2年に日本さくら名所百選に選定されました。

中国地方随一の桜の名所として、花の見頃には県内はもとより県外からも多くの観光客で賑わいます。

また雲南市には、三刀屋川堤防、大東丸子山公園、加茂中央公園など市内各地に桜並木や山桜、珍しい緑の桜花御衣桜や枝垂れ桜の巨木などのもあり地域の皆さんに親しまれています。

木次町には約5万本、雲南市では約10万本の桜の木があり、春になると町中が桜色に染まり、一年で一番光り輝く季節となります。

 

桜百選斐伊川堤防桜並木には、木次の里の人々と桜の木にまつわる長い歴史がありました。

桜を愛し慈しんだ木次の人々と桜の物語をご紹介いたしましょう。

・・・・続く

 

 

木次土手に桜が植え始められたのは明治の終わり頃からです。

木次は中世に始まった「紙市」によって商業の町として栄えてきました。明治期にはさらに雲南地方の中心地として、斐伊川を船で、また鉄道を利用したりで物資を運搬するなど人や物の交流拠点として大変な賑わいを見せていました。

この頃旅館を営む方々が、泊まりのお客さん達に喜んでもらおうともてなしの心で桜を植え始めたのです。 

桜は土手でのびのびと育っていました。

ところが大正時代にはいり、人々が植えた桜がちょうど見ごろを迎えた大正7年、新しく赴任してきた警察署長さんによって状況が一変したのです。

桜たちにとって最初の危機が訪れたのです。

・・・・続く 

当時土木行政は警察の仕事でした。

また木次の町は「流れ町」と言われるほど水害に泣かされてきた町でした。

新しく赴任してきた警察署長は、「堤防に桜を植えると地盤が弱くなる。町民の生命・財産を守るために、即刻桜を引き抜き元の堤防に戻すのだ」と町長に命令を下したのです。

町長は、「せっかく見ごろを迎えたこの桜の木を、町民たちは心から待っています。この桜を抜き去ってしまえば、桜を植え育ててきた町民に、なんと言って申し開きが出来ましょう・・・

それに桜の根は浅根であって、その根は地面のすぐ下を這うように伸びています。堤防の中深くまで入り込むようなら地盤を弱くして危険があるでしょうが、桜は反対に堤防を守っているようにわたしには思えるのですが・・・」

しかし町長の願いは聞き入れられず、警察署長の命令一過、何本かは木次神社の境内や当時の木次小学校の校庭に移植されたのですが、すべて伐採されたのです。

その時移植された桜は、今でも花をつけ私達を楽しませてくれています。

・・・・続く

来次神社に移植された桜の木。

当時の桜は朽ちてしまいましたが、根から若木が誕生、それも2本!  ちゃんと命をつないでいます。

やがてこの伐採命令を出した警察署長さんは2年ほどで転勤され、その後また町民たちは桜の木を植え始めました。

時代が昭和に入ると、天皇陛下の御大典記念として全国各地で桜の木が植えられました。斐伊川堤防にも新町から八日市まで約2キロにわたって沢山の桜が植えられました。

そしてその桜の世話をしたのが当時の小学生でした。

子供の成長と共に桜も育ってほしいとの願いからそれぞれの桜に子供たちの名札をつけ、子供たちは皆競うように桜の面倒をみてくれました。

ところがその時代は、今のように豊かではありませんので桜に与える肥料はまったくありませんでした。

それでも子供たちは知恵を出し合い、米のとぎ汁や残飯、草や藁の堆肥などを与え大事に育てました。

中でも一番の人気は馬糞でした。

当時の桜土手は、頻繁に荷馬車が往来していましたので、馬が糞をすると子供たちは我先にと取り合い桜の肥料に与えたのです。

子供たちにとって桜は大切な友達であり、自分が守り育てなければならない分身のような存在だったことでしょう。

 

このように町民や子供たちが愛情を注いだ桜に再び試練がやってきました。

 

昭和16年に始まった太平洋戦争、桜を可愛がり育てていた若者たちも戦場に送りだされ、沢山の尊い命が失われました。

二度と満開の桜の花を見ることは出来ませんでした。

 

やがて戦火が一段と激しくなった昭和19年、桜にとって絶体絶命のピンチが訪れました。

・・・・続く

(役人)町長さん、もう木次町だけが例外という訳にはいかないのですよ。何度も申し上げているように、大東の丸子山や加茂の土手の桜などもみんな伐って供出されました。木次の桜も早く切って出してくださいよ。

桜の伐採命令は、軍部を始め県当局のお達しなんです。すでに松や杉はその要望に応えているではありませんか。

むしろ、桜の木は大目に見てきた訳ですから、この際喜んで積極的に協力していただけませんか。

(町長)木次土手の桜を伐って薪や炭にしたところで大した量は確保できません。それに桜は火力も弱く、薪や炭にしてもあまりお役には立ちません。

それに木次土手の桜は、木次の子供たちの手によってここまで立派に大きく育ってきました。いくら戦時中の緊急事態とはいえ、町民の気持ちを考えると、とても伐採など・・・

私にもう少し力があれば、加茂や大東の桜も守りたかった・・

(役人)この戦時下に何を呑気な・・・!

他の木は、船舶や家屋、銃器となって国家に仕えている。桜は所詮遊び心に過ぎぬもの、そんな役立たずが薪となり炭となって国家に奉公するのは当たり前じゃないですか。

このご時世に花見で浮かれる国民などいませんよ!

(町長)この大原郡からも沢山の若者が戦場に送りだされました。そしてたくさんの尊い命が異国の地で散りました。

きっと戦争が終われば故郷に帰り、満開の桜を見ることを夢にまで見たことでしょう。今、この木次土手の桜を伐ってしまえば、戦地から帰ってくる者たちに申し訳が立ちません。

木次町が供出する割り当て分は、日登村や阿用村、海潮村など山林をたくさん持っているところにお願いして、その責任を果たしたいと考えております。どうか今しばらくお時間をいただきたい。

(役人)貴方の仰っている言葉をこのまま上層部に通したら、即刻クビが飛びますよ。それでもいいんですか?

(町長)私の役職などどうなっても構いません。

どうか木次の桜をこのまま残していただき、戦地から生きて帰るもの、そして魂となって帰ってくる者にも満開の桜を見せてやりたい・・・ただそれだけです。

(役人)・・・わかりました。貴方にそれだけの覚悟がおありなら・・・

薪や炭は、桜以外でもよい、揃えてもらえますね。

(町長)はい、承知いたしました。

 

高橋町長はのちに、当時を振り返って「今や県下有数の桜の名所として木次の桜が知られるようになったが、あの時、伐採を受け入れていたと思うと・・・感慨無量です」と語っていらっしゃいます。

まさに身体を張って桜を守ってくれた高橋町長は、木次の桜たちにとって最大の恩人であります。

 

 

 

一難去ってまた一難。

長く苦しい戦争がようやく終わり、人々の暮らしが再生に向かおうとしていた矢先のことでした。

 

・・・続く

昭和20年9月17日、強烈な台風による集中豪雨がこの地域を襲いました。

斐伊川はヤマタノオロチに例えられるほどの暴れ川、そして久野川までも警戒水位を突破、桜土手を濁流が呑み込もうとしていました。

 

状況はますます悪くなり、新町あたりの土手が切れる恐れが出てきました。

土手を補強する畳や土嚢も底をつき、最後の手段、桜の木を伐って堤防の補強に使うことになったのです。

 

昭和19年桜の伐採命令が出された時、高橋町長と共に役場に勤務していた舟木貞三郎さんは、「この桜は堤防で育っているものだから、万が一川が増水し堤防が危険な場合にはこの桜を伐ってもやむを得ませんが、それまではどうか伐らずに残しておいてください」と、土木事務所長に嘆願されました。

が、この嘆願が現実のものとなったのです。

 

役場からも堤防が万が一の場合には是非桜を伐って使ってほしいと、頼まれていた消防団長の命令が出ました。

子供のころから育ててきた桜の木を伐らねばならない苦悩の消防団員もいたそうですが、町を守る為には仕方がありません。新町あたりの何十本かの桜の木が伐られ、土手の補強に使われました。

迫りくる濁流を物ともしない消防団員の活躍があり、木次土手は決壊の危機を脱することが出来ました。

 

「さぞかし桜も、お世話になった木次の皆さんに少しだけ恩返しが出来たと喜んでいますよ」と後になって舟木さんはおっしゃっていました。

 

・・・・・続く

 

 

 

昭和22年 6・3制の新教育が始まりました。

しかし開校はしたものの教科書は揃わず、備品も図書もなく、校長を始め先生たちは、生徒に「いったい何をどのように教えるべきか」苦悩をしながらの教科指導だったそうです。

 

やがて、昭和30年頃から始まった〈集団就職〉によってこの町から旅立つ子どもたちが増えてきました。

《金のたまご》ともてはやされた10、5・6の若者たちは、都会へ大都会へと巣立っていったのです。

この頃、桜土手では「遊覧花馬車」が子ども達を乗せて桜トンネルをくぐって行きました。

桜と共に歩んできた人々も、「今年の桜はより美しい。遠来の観光客にも喜ばれた。桜並木はこの町の大きな財産だ。」と口々に褒めたたえました。

思えばこの頃が、人も桜も一番のどかで幸せだったかもしれません。

 

やがて、桜の木にとって最大の試練とも言える時がやってきました。

 

それは、都市計画法の指定を受け三日市の裏道路の大改修工事が始まったのです。

連日のブルドーザーや工事車両の往来、久野川沿いや土手に近い河川敷は2mも掘り起こされ厚いコンクリートを流し込み、さらに石垣が積み上げられました。

2年間にも及んだこの工事は、桜の木にとっては大地震に見舞われたような恐ろしさと心細さであったことでしょう。

桜の根はボロボロに引き裂かれ、栄養補給路は途絶えてしまうといった桜の木にとっては残酷な仕打ちも、川から人家を守る為の護岸工事ではやむを得ないことだったのです。

 

そして昭和49年、今度は桜土手に自転車舗道が作られる計画がおきました。

土手下の道路の車の通行量も日増しに激しくなって、子供たちが安全に通学するためには、土手を通うのが一番良かったのです。

 

しかし桜にとっては・・・・

 

・・・・続く


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